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ルターが証しした信仰義認

知多教会説教(2017年8月27日)

イザヤ書9:5、ローマの信徒への手紙3:21-26、ヨハネによる福音書17:20-23

 私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン。

 今年はいよいよ、宗教改革500年の年を迎えました。これは人類の歴史においても特別な年であって、百年単位で考えてみても、次の600年の年には、私たちの誰も生きてはいないでしょうから、そのような意味でも、私たちにとって、一生に一度だけの貴重な年となっています。この特別な年をどのように記念するのか?それは、様々な分野で様々なことが行われてきています。勿論みんな、ルターの宗教改革ということを踏まえたものではあるのですが、それは余りにも多岐にわたっているので、その全体像を捉えることは、なかなか困難なことのように思われます。

 そのような状況の中にあって、私自身には、ただ一つの思いだけがあります。それは何かと言うと、即ち、≪信仰義認と言われているものが、ルターにとって何を意味していたのか、この事だけをきちんともう一度よく確かめ、みんなで理解し、みんなで共有したい≫、という思いです。なぜなら、ルターの信仰義認というものが、現在の所、正しく理解されていないように、私には思われるからです。ルターが証しした信仰義認は、ただ単に「信仰によって罪が赦される」ということだけに留まらないものだと、私は理解しています。しかしながら、今の所、ルターの信仰義認を「信仰によって自分の罪が赦されること」として理解している人の方が、圧倒的に多数であると思われます。宗教改革500年という記念すべき年に、私はこの状況を少しでも打開していきたいと考えています。そして、私たちルーテル教会の信者が、少しでも正しく、正確に、ルターの証しした信仰義認について理解すること、また、ルターが信仰を通して受け取った神の恵みを、私たちルーテル教会の信仰者がしっかりと受け取ることを、望んでいます。

 それでは、これから、『ルターが証しした信仰義認』について、ルターの著作に基づいて、一つ一つお話ししていきたいと思います。

 まず初めに、筆頭に挙げられるべきと私が考えるのは、『福音においてなにを求め、期待すべきかについての小さな教え』(1522年)に書かれている文章です。ルターは次のように言っています。

 「キリストが何かを行い、あるいは、苦しまれるということをあなたが注目し、聞くならば、キリストご自身がそのような働きと苦しみとをもって、あなたのものであることを疑わず、あなた自身が・…したかのように、いや、あなた自身がキリストであるかの如くに、・…信頼を置いて良いのである。見よ、これこそ、福音を正しく認識するということである。」

 ここでルターは、「キリストによってあなたの罪が赦された、ということを信じなさい」とは、決して言っていません。そういうことはルターは言っていないのです。ルターが言っていることはこうです。

「キリストご自身がそのような働きと苦しみとをもって、あなたのものであることを疑わず、あなた自身が・・・したかのように、いや、あなた自身がキリストであるかの如くに、・・・信頼を置いて良いのである。」と言っているのです。

 これはつまり、≪キリストご自身が、私たち一人一人に与えられたということを、信じなさい≫、とルターは言っているのです。では、キリストご自身が私たち一人一人に与えられたということは、それは一体何を意味しているのか?その事を詳しく説明するために、ルターは次のように言っているのです。もう一度お読みします。

 「キリストご自身がそのような働きと苦しみとをもって、あなたのものであることを疑わず、あなた自身が・・・したかのように、いや、あなた自身がキリストであるかの如くに、・・・信頼を置いて良いのである。」

 ここでルターは、「あなたの罪が赦された」ということは何も語っていません。むしろルターが語っているのは、「キリストがあなたに与えられた」ということです。そして、「あなた自身がキリストのように生きたと考えて良い。いや、あなた自身がキリストであるかのように、そのように考えて良い。」とルターは言っているのです。

 ですから、ルターにとっての信仰義認とは、≪キリストが自分に与えられた≫ということであり、それは即ち、≪キリストと自分が一つにされた≫ということなのです。そしてもはや、「キリストが為さったことは、私が行ったこと。キリストが苦しまれたことは、私が苦しんだこと。私は神様の御前にあって、あたかもキリストご自身と同じように扱われ、あたかもキリストご自身のように見なされるのだ。」ということを、ルターは言っているのです。これが!これこそが!ルターが証しした信仰義認の本当の意味です。ですからルターは、「見よ、これこそ、福音を正しく認識するということである。」と強調して言っています。そして、「自分の罪が赦される」ということは、「キリストと自分が一つにされた」ということの結果として、そこから出て来ることなのです。

 今の私たちは「自分の罪が赦される」という結果だけに注目しがちです。しかし、ルターが経験した≪信仰の喜び≫、信仰によって義とされるという≪救いの喜び≫は、≪キリストと自分が一つにされる≫という所から湧き出て来るものです。これを理解しなければ、決して、ルターが経験した喜びを知ることはできません。ですから私は、あくまでもそこを指し示して、ルターが経験した喜びを、皆さんにも是非知って頂きたいと思い、こうしてお話ししているのであります。

 さて、それでは、ルターの信仰義認の本当の意味が、≪キリストと自分が一つにされる≫ということであるならば、それならば、≪自分の罪が赦される≫ということは、一体どのようにして起こって来るのでしょうか?そのことについて、ルターは、『二種の義についての説教』(1519年)の中で次のように説明しています。

 「だから、キリストの義は、キリストを信じる信仰によって私たちの義となり、キリストのものはすべて私たちのものとなる。いや、むしろキリストご自身が私たちのものとなるのである。従って、使徒はそれを、『神の義』と呼んでいる。・・・・・・これは、無限の義であって、一瞬にしてすべての罪を呑み込んでしまうものである。さらに、キリストに信頼する者は、キリストのうちに留まり、キリストご自身と同じ義を所有し、キリストと一つとなる。従って、この人のうちに罪が留まることはあり得ない。」

 ルターはこのように説明しています。つまり、神の恵みによってキリストと自分が一つにされるならば、キリストの所有されている無限に大きな神の義が、自分の罪を呑み込んでしまうということなのです。キリストが私たちの罪をご自分のものとされ、呑み込んで吸収し、無きものとし、その代わり、私たちにはキリストの無限に大きな義が与えられるということ。それが即ち、私たちに神の義が与えられ、私たちの罪が赦されるということになるのです。ルターはこのようにして、≪自分の罪が赦される≫ということも、≪キリストと自分が一つにされる≫という神の恵みから導き出して説明し、説き明かしているのであります。

 また、この『二種の義についての説教』(1519年)においてもルターは、「キリストの行いが、自分自身の行いとして与えられている」ということについて、次のように述べています。

「だから、人は自信をもって、キリストにおいて誇りを持ち、『キリストが生き、行動し、語り、受難し、死にたもうたことは、私のものである。あたかも、私が、主のごとく生き、行動し、語り、受難し、死んだのと同じように、私のものである』と言うことができる。」

 以上のようにして、『ルターが証しした信仰義認』が本当に意味するところは、≪キリストと自分が一つにされる≫という、神秘的な合体のイメージに基づいています。たとえ少しであったとしても、この事がお分かり頂けたことと思います。ルターの著作を読む時に、この事を思い出すことは、とても役に立ちます。なぜなら、ルター自身が、≪キリストと自分が一つにされている≫というこの神の恵み、圧倒的な神の恵みに突き動かされて、書いているものだからです。このことが分かれば、ルターの心が分かったことになるのです。

 さて、このルターの信仰の喜び、救いの喜びが、最も美しい形で表現されているのは、間違いなく、『キリスト者の自由』(1520年)の中の文章だと思います。ルターは、≪キリストと自分が一つにされている≫ということを、霊的な結婚として表現しました。キリストが花婿、私たちが花嫁です。キリストは高貴で気高い花婿であり、それに対して私たちは、身分の低い、罪に汚れた花嫁だと言うのです。≪キリストと自分が一つにされる≫という信仰義認の本当の意味を、ルターは次のように説明しています。

 「信仰は、・・・・・・新婦が新郎と一つにされるように、私たちをキリストと一つにする。この結合から、・・・キリストと私たちとは一つの体となり、両者の所有、即ち、幸も不幸も、あらゆるものも共有となり、キリストが所有なさるものは信仰ある私たちのものとなり、私たちが所有するものはキリストのものとなる、という結果が生じる。ところでキリストは、一切の宝と祝福とを持っておられるが、これらは私たちのものとなり、私たちは一切の不徳と罪とを負っているが、これらはキリストのものとなる。ここに今や喜ばしい交換と取り合いとが始まる。・・・・・・富んだ、高貴で義である新郎キリストが、貧しく、卑しく、悪い娼婦をめとって、すべての悪から解放し、すべての財貨をもって飾ってくださるとしたら、それは喜ばしい結婚ではないか。こうして、罪が私たちを永遠の罰に定めることは不可能になる。なぜなら罪は、今やキリストの上に置かれ、キリストの中に呑み込まれてしまっているからである。」

 神様の御前で、自分自身がキリストご自身のように生きた者として見なされるということ。あたかも自分自身がキリストご自身であるかのように見なされるということ。これが、『ルターが証しした信仰義認』の本当の意味です。これは、私たちの人生がまるごと、すべてが、キリストご自身の人生と取り換えられるということです。このことがどれだけ大きな恵みと大きな喜びを自分の人生にもたらすことになるのか、それは、体験した者だけが知ることのできる、神秘的かつ信仰的喜びです。ルターの説いた信仰義認は、長い歴史の中で、「信仰によって自分の罪が赦されること」という理解に落ち着いてしまっています。しかしながら、宗教改革500年のこの記念すべき年に、私たちは是非とも、ルターが見出した当初の、信仰義認の喜びを、今こそもう一度、取り戻したいと願います。神様がルターに与えてくださった、この信仰義認の喜びを、一人でも多くの人が同じように受け取るようになることを、私は願っております。それでは最後に、神様が皆さんをそのように導いて下さいますよう願って、お祈り致します。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(エフェソ1:17-19)

 わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン

(※ この説教は、知多教会で行われたものに基づいて、改良を加えたものです。或る信徒の方の意見を聞いて、ルターの引用文の文言を、皆が理解しやすいように、多少変えているところがありますので、どうぞご了承ください。)


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