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「内的人間と外的人間」―「キリスト者の自由」を読む―

1. 自由の問題

人間は元来自由を希求してきた。自由を求めて、さまざまな戦いが起こってきたのも、人間が自由を求めるという精神にあると言える。しかし、自由を求めたがゆえに、人間は罪を犯してしまい、神から離れてしまった。神の支配を逃れることが 自由だと勘違いしたのが、人間なのである。人間の問題は、罪に支配されることで、自由を失ってしまうという問題である。自由を求めて、不自由になるのである。

マルティン・ルターも自由を求めて、修道院に入ったと考えることができる。1505 年(22 歳)の落雷体験を通して、神の裁きとしての「死」を恐れることから逃れようと修道院に入る誓いを彼は立ててしまったからである。そのようなルターが修道 院生活においては見いだせなかった自由を、神の言において見いだし、解放された。これを「塔の体験」(1512 年[29 歳]~1519 年[36 歳]の幅で論じられている) として、のちに語っている。

それまで縛られていた「業による義認」から解放されたルターは、自由を生きる ということが如何なることであるかを説いた。人間が罪の奴隷的意志に支配されていることを説いた「奴隷的意志について」(1525 年)より 5 年前に書かれた「キリスト者の自由」(1520 年)も人間存在の罪性について語っている。自由を生きることを困難にしているのは、罪の支配に縛られている人間性の問題なのである。人間が如何にして自由を生きるのか。これがルターの人生における問題だったのである。

2. 内と外の問題

「キリスト者の自由」において、ルターは「内的人間」と「外的人間」に分けて、人間を論じている(1)。当時のローマ教会が教えていたのは「外的人間」に関わる「業」 の教えであった。ルター自身もこの「業」に精進した結果、何の平安も得られなかったのである。むしろ、罪の意識は深まるばかりであった。その結果、「外的人間」 が如何に善き業を行おうとも、「内的人間」には何の関わりもないと考えるようになったのだ。

ルターはこの「内的人間」を人間の魂と呼び、魂に関わるのは「業」ではなく「信仰」なのだと説く。この「信仰」は、魂が聞く御言葉を通して、与えられるもので ある。ルターが説く「信仰」を人間の信心力のように解してはならない。「信仰」は 神が与え給うものである。「内的人間」である魂が神の約束の言葉を聞き、神の約束の言葉と一体となることが「信仰」の働きである(2)。そのような出来事は人間が起こすのではなく、キリストの言葉が起こすのである。それゆえに、「信仰」は神の賜物なのであり、信仰者のうちに働く神の働きなのである。

さて、「内的人間」と「外的人間」に分けるルターの立場は、パウロの言葉に基づいている。コリントの信徒への手紙二 4 章 16 節の言葉「むしろ、もしまたわたしたちの外的人間が破壊されているなら、むしろ、わたしたちの内的(人間)は更新 されている、日々に。」(私訳)に従っている。内的人間が神の言と一体となり、キ リストと一体となることによって、外的人間における「業」も起こってくるというのが、ルターの立場である。外的人間が内的人間を矯正することはできない。内的人間が外的人間に現れるのである。従って、内的人間に信仰が与えられることが重要なこととなる。では、如何にして信仰が与えられるのだろうか。

3. キリストの説教

「信仰が生まれる」とルターは語っている。「何ゆえにキリストが来たりたもうたのか、また彼は何を獲得し与えたもうているのか、またいかなる用途と成果とをもって彼を受くべきであるのかが説教されるとき、そのことからこの信仰は生まれ、 かつ保持されるのである。」(ラテン語版第25段落)と。キリストが説教されるとき、信仰が生まれると言うのである。そのようなとき、「キリストへの愛に心がたのしくなる」(同段落)とも語っている。

信仰を与えられた内的人間である魂は、「キリストへの愛」に満たされており、 心はキリストを愛することで「楽しくなる」のである。信仰は心が楽しくなることなのである。これが福音である。自分のために何もできない人間が、信仰を通してキリストによって義とされるからである。キリストが説教されるとき、魂は喜び楽しみ、平安を得る。内的人間がこのように生きるとき、外的人間の「業」が生じるのである。

4. 外的人間の業

内的人間は、自分自身の力に絶望して、神の約束の言、キリストの言によって、 喜び楽しむようにされる。自分自身の力に絶望していない人間は内的人間が生きて いない。何故なら、信仰が与えられていないからである。外的人間がすべてである かのように生きている。信仰に反して生きて、内的人間が生きることを妨げるので ある。このようにならないために、外的人間である肉体を信仰に服従せしめること が必要なのだとルターは説く。何故なら、「我々は信仰と愛とを全うして十分に再生 されているものではないから」(ラテン語版第35段落)なのである。

外的人間はそれだけではその本性に従って、罪に支配されているので、善き業を行っても罪になる。内的人間が外的人間を服従させるとき、善き業をもって義とされようとの思いは生じず、ただ善き業が行われる。これだけのことなのだが、外的人間の反抗が強いがゆえに、我々の内的人間が妨げられるのである。

さて、内的人間が行う業は、外的人間を通して外に現れるが、「ただ神を喜ばせることのみ目ざしてなさるべきものである。」(ラテン語版第35段落)とルターは言う。「神を喜ばせる」ことと「自分が義とされる」こととの間に如何なる違いがあるのかと訝る人もいるであろう。神を喜ばせることは神に服従することであり、自分が義とされることは自分の義のために業と神を使うことである。それゆえにルター はこう言う。「したがって善きわざは善き人をつくらず、善き人が善きわざをなす。」 (第37段落)と。そして、「悪い木と良い木」に関するキリストの言を引用して解説する。「人が善きわざや悪しきわざをなすに先だって、必然的にまずその人の人格 そのものが善であるか悪であるかでなければならず、彼のわざが彼を悪くしたり善くしたりすることはなく、むしろ彼自身が彼のわざを悪くもすれば善くもするのである。」と語ることによって、キリストの言から人間の問題を解説している。

5. 律法と福音

我々人間の人格の問題は、魂の問題である。善き人とは善き魂の人であり、悪しき人とは悪しき魂の人である。善き魂と悪しき魂は如何にして造られるのか。信仰と不信仰によってである。信仰を与えられ受け取った魂は内的人間が善きものとなり、不信仰に留まる魂は内的人間が悪しきものである。

しかし、人間は自然的にはすべて悪しき魂である。アダムとエヴァの罪を継承しているからである。この人間が、善き魂になるにはどうしたら良いのか。律法と福音が説教されなければならない。「神の言は片方だけでなく、両方とも説教されるべきであり、宝庫からは、新しいものも古いものも取り出されるべきである。」(第40段落)とルターは言う。「律法の声は、人々が恐怖せしめられ、彼ら自身の罪の認識 へと呼びもどされ、そこから悔い改めとよりよい生活法へと回心せしめられるために持ち出されるべきものである。しかし、ここに立ちどまるべきではない。これはただ傷つけるだけで傷を包むことを知らない。刺すだけで、いやすことがない。また殺すだけで生かすことがない。地獄へおとすが、そこから導き出すことを知らない。卑しくするが、高めることを知らない。それゆえに、恩恵と《罪の》ゆるしの 約束の言が、信仰を教え励ますために、説かれねばならない。」(第40段落)と。さ らにこうまとめる。「悔い改めは神の律法から生ずるが、信仰や恩恵は神の約束から 生ずるのである。」(第41段落)と。

こうして、信仰と恩恵が「キリストが持ちたもういっさいを、キリスト者《人格》 に付与するものである。」と言われる。キリスト者はキリストと同じように、「あらゆるわざから自由であるが、この自由において全く自らをむなしくし、僕のかたち をとり、人間の姿となり、その有様は人と異ならないものとなり、仕え、助け、神がキリストにより彼とかつて交渉したまい、今もなお交渉していたもうものを彼が 見るように、あらゆる方法で自分の隣人と交わるべきである。」(第46段落)という 結論に至るのである。

こうして、「キリスト者は自分自身に生きないで、キリストと自分の隣人《のた めに》生きる。そうでなければ、キリスト者ではない。信仰によってキリストに生 き、愛によって隣人に生きる。信仰によって自分を越えて、上の方へ、神へ連れ行かれる。しかし再び愛によって自己を越えて、隣人の下に降下する。それでも常に、 神と神の愛にとどまっているのである。」

外的人間が内的人間に服従することによって、これが実現するのである。従って、 我々はまず内的人間から始めなければならない。外的人間から始めるとき、内的人間はキリストと結びつくことはないからである。キリストと一体となった魂、内的人間においてこそ、外的人間の業が「神に喜ばれるように」となされるのである。 この順序を逆にすることはできない。しかし、外的人間を強制して、業を行わしめ るほどに内的人間が成長していないならば、キリスト者ではないのである。この言 葉を忘れることなく、外的人間に内的人間が現れるように、キリストの説教を聞き続ける者として生きていこう。

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脚注

(1) 「人間は、霊的と肉体的との二重の本性から成り立っていて、人々が魂と呼んでいる霊的本性に従 えば、霊的な、内的な、新しき人と呼ばれ、人々が肉と呼んでいる肉体的本性に従えば、肉的な、外的な、古き人と呼ばれている。」(ルター著作集第一集第2巻「キリスト者の自由」ラテン語版第5段落)

(2) 「だが、神のこの約束は、聖なる、真なる、義なる、自由なる、平和なる、またあまねき善に満ちた言であるから、堅き信仰をもってこの言に固着する魂が、ただに、言のいっさいの力にあずかるのみでなく、その力に飽き足らせ酔わせるというように、言に融合せしめられる、否、完全に言に呑まれるということが起こる。」(ラテン語版第13段落)


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