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思想と生涯 状況の神学者ルター

 

この文章は1976年に「世界の思想家」(平凡社、全24巻)の第5巻として出版されたものの冒頭に載せた宗教改革者マルチン・ルターの生涯と思想/信仰の紹介としてまとめたものです。久しく絶版となっていたものを、リトン社が『マルチン・ルター 原典による信仰と思想』として2004年に新版の形で刊行してくれました。この「生涯と思想/信仰」に続いて、「聖書を読む」、「対決と形成」、「キリスト教的人間」、「フマニスムスとのかかわり」、「歴史に生きる」の5章にわたって、いずれもルター原典から選んだ彼自身の言葉が訳されていて、その信仰と思想に触れることができます。(著者 徳善義和)

 

  目次

   1.ルターの凝視したもの
    体系家でなく  

    状況の神学者

  

   2.ルターの形成

    誕生

    素姓

    生い立ち

    大学生活

    修道院入り

    神学研究へ

    神学教授

  

   3.宗教改革者

    第1回詩編講義

    95箇条

    決断を迫られる

    宗教改革文書の刊行

  

   4.宗教改革の展開

    決定的決裂

    ワルトブルクで

    再び改革運動の渦中へ

    深刻な危機
    熱狂主義との対決

    農民戦争の中で

  

   5.「突破」に生きる
    フマニストとの訣別  

    ルターの結婚

    領邦教会制

  

   6.晩年のルター

    晩年の活動

    ルターの最後

    ルターの評価
  

 

1.ルターの凝視したもの

 

体系家でなく

 思想家には、多く体系家がいる。現実との戦いや、思想の内的な戦いをとおして、自らの思想を内にじっくりと構築し、それをひとつ、もしくは数少ないいくつかの主著によって公にし、後世にも残すタイプである。そのような体系的思想家に対するには、私たちはその主著と徹底的に取り組むことになる。主著をとおして思想家との対話が可能になる。キリスト教思想の歴史を見ても、トマス・アクィナスとかカルヴァン、そして近くはカール・バルトなどはそうした体系的思想家にはいる。

 しかし、思想家は体系家ばかりではない。自己自身の内なる状況や、外の状況との絶えざる戦い、折衝の中で、そうした状況を生々しいほどに反映させながら、その時々の自分の戦いの軌跡を残していく思想家である。このようなタイプの思想家を私たちは、体系家に対して「状況家」と名付けることができるであろうか。このような人において、一あるいは少数の主著をあげることは困難である。その思想を学ぼうと思えば、体系化された思想に触れるよりも、状況の中に形成されつづけた思想の発展を跡づけねばならないことになる。発展を跡づけた後に、或る程度までその思想を、学ぶ者の立場をも反映させながら一応体系化してみることができるときもあれば、それすら可能でないときもある。

 

状況の神学者

 マルチン・ルターは後者、状況的な思想家のひとりである。彼には主著と言いうるような一、もしくは少数の著作はない。一生かかって彼は、自らが身を置いた状況の中で、あるいは外から求められ、あるいは内からほとばしり出るものを、紙にぶっつけていった。私たちはそこにひとりの思想家の戦いや苦悶や破れの跡を見る。体系化された、静的に整ったとも思える思想のかわりに、ある意味ではとらえようもないほどに動いて止まない思想に触れる。その動きは一見ばらばらで、まとまりがないようだが、動きにつれて凝視する者のまえに、やがてその動きの核とも言えるものが見えてくる。激動する状況の中で、彼が一点凝視しつづけたものである。そういう意味で、この一点を「神」であるとも、「十字架のキリスト」であるとも、言うことができる。状況の思想家としてのルターは、それゆえ「状況の神学者」と呼ばれることがふさわしい。このような人にあっては、体系的思想家の場合以上に、その生涯と状況とが大きな意味をもってくる。その思想に触れようとする者は、脈絡、前後関係の中で、著作に当たらなければならないのだ。ルター自身が、私たちにそのことを要求していると言ってよいだろう。

 

2.ルターの形成 
 
誕 生
 
 マルチン・ルターの母マルガレーテは、誕生を11月10日の深夜とはっきり記憶していたという。翌11日、聖マルチンの日に教会で洗礼を受けさせたことは、記憶の確かな根拠になっていたはずである。ところがそれが何年のことだったのかは、彼女の記憶でははっきりしなかったらしい。前後数年のできごとを綴り合わせて見て、それが1483年のことであったというのは、ほぼ確実のこととして受けいれられている。当時のほとんどすべての人々の場合と同様、ルターの誕生はこの世の片隅で、人知れず起こった始まりであった。両親、ハンスとマルガレーテのことを考えれば、その思いはいっそう強くなる。

 

素 姓
 
 ルター自身が述べているところによれば、彼は「農民の子」であった。事実に即して言うと、「農民の子」と自称していたとも言える。父親ハンスは確かに農民の出であった。今の東ドイツに属するチューリンゲン地方の小村メーラには、ルターの父祖たちの住んでいたと言われる家が、もちろん後の修復を経てではあるが、残っているという。しかし、末子相続の原則があったこの地方で、長男ハンスがこの家を継ぐことはなかった。もっと昔だったら、ハンスは村外の荒れ地を開いて、自らも農民として生きる道を講じたかも知れない。しかし、15世紀末の時代の中で、窮状を強いられながらも一応確実な農民の生涯よりも、ハンスは確実さは少なくても、可能性のある新しい生き方を求めたのではなかったろうか。
 
 故郷メーラを出て、鉱山での職を求めて、ハンスとマルガレーテの旅が始まった。アイスレーベンでハンスがなにをしたのかつまびらかではない。鉱夫として生きる可能性を、この町は十分彼に提供しなかったようだ。マルチンの誕生後半年ほどで、一家は程遠からぬ銅鉱の町マンスフェルトに移住している。ハンスにとって鉱夫の生活が、マルチンにとって鉱夫の子の生い立ちがそこにあった。

 

生い立ち
 
 はじめ一家は厳しい生活を強いられたようだ。働きづめの父親、たきぎを山から背負っておりる母親の姿が、マルチンの心に焼きついていたらしい。地下で働く鉱夫はやがて地上に出て精錬に従事し、領主から4つの熔鉱炉の認可を得て自営するほどになった。移住して7年目にこのハンスの名は、町の4つの地区のひとつを代表する市会議員四人の中のひとりとして、町の記録の中に登場してくる。強固な意志と頑健なからだとをもつこの働き者の生き方は、息子マルチンのものでもあった。自分なりに人生を築き上げた父親が、それ以上の階段に向かう人生を息子に期待してもふしぎではない。マルチンが五歳で地元のラテン語学校に行きはじめたというのは、父親の期待を反映しているのだろうか。マルチンはほぼ10年この学校で、中世風の、厳格なばかりで、教育法にも内容にもひどく無頓着な教育を受けてから、マグデブルク、アイゼナハの学校へと送られて、大学教育に向けての準備を受けた。アイゼナハでのコッタ夫人の家の影響や乞食修道士として町を歩くアンハルト公の修道生活の姿が、この時期のマルチンの宗教性に深い印象を与えていることは否定できない。

 

大学生活
 
 大学の選択がどのように行なわれたのか、詳しいことはわかっていない。マンスフェルトの町からほぼ同じ距離にあるふたつの町、ライプチヒとエルフルトのふたつの大学のうち、ハンスが息子のためになぜエルフルトを選んだのか、知られていない。「本当に学びたい者はエルフルトに行く」という行きわたった名声のゆえか、それとも「新しい道」と呼ばれる学風がこの大学を支配していたからか。いずれにせよこの大学の選択は、後のマルチンにとって、決して小さくない意味をもつことになった。
 
 大学生としてのマルチンにそれほど目立った面があったとは思えない。1501年5月に入学して一年半後には、57人中30番で教養学士となり、さらに二年半後には17人中2番で教養学修士となったという記録上のこともさることながら、ルター自身のことばや種々の記録は、当時の平均的な学生生活と、それに従うルターの学生生活の像を、おぼろながら描き出してくれる。修道院にならった学寮生活や陽気な学生生活は、ルター自身について言うと、「哲学者」というあだ名と、ツィタをかき鳴らす陽気さとの二面に表れているのだろうか。
 神学や哲学だけでなく、すべての学問を貫いていた「新しい道」の学風は、後期ノミナリズム(唯名主義)で総称されるが、個への注目、その意志や能力の重視といった面を中心に、後のルターが発展させるべきもの、対決すべきもの、乗りこえるべきものとして、ルターの思想形成の下地を塗ったことは確かである。

 

修道院入り
 
 当時は、教養学修士となってはじめて、神、法、医の上級学部への進学が可能となる。マルチンは父親の希望に従って、法学の勉強を始めた。1505年5月のことである。6月の末、どんな理由かはわからないが家に帰った。7月2日大学にもどる途上、あと1キロ半の、シュトッテルンハイムという地点で、ルターは落雷に遭遇した。「聖アンナ様、私は修道士になります」、危急の中で、鉱夫たちの守護聖人アンナを呼びながら、ルターの口から誓願の言葉が発せられた。「誓うように強制された」とルターは感じ、誓った。
 
 父親の反対と怒り、友人の引き止めをふり切って、マルチンは、エルフルト市内の数ある修道院の中から、戒律厳守派の聖アウグスティヌス会修道院に入った。近代風の父親のもとで、まことに中世風な修道院入りの道を選んだルターは、後にそこからまったく違った形で出てくるまで、そこを出ることはなかった。
 
 翌年正式に修道士として受け入れられ、司祭に叙品され、5月、初ミサに寄進を持ってやってきたときにも、ハンスの心がまだ解けていなかったことは、ふと語りかけた息子に、「聖書には『あなたの父母を敬え』と書いてあるのを、おまえは読んだことがないのか」と問い詰めたという事実の中にも表れている。自分ののぼった階段を、さらにのぼりつめていくと期待をかけた息子は、父親ハンスの想像できないところに入って、父親の手からまったく失われた、とその頃のハンスには思えたことであろう。

 

神学研究へ
 
 司祭になってから、そのうちの何人かが神学研究をするのが当時のやり方であった。教養学部を終えていたルターはそうした何人かのひとりであった。教養学部でアリストテレスの『ニコマコス倫理学』の講義をしながら、エルフルト、ヴィッテンベルクの神学部での研究が続く。修道会の命を受けて、会の紛争問題にかかわるローマ旅行をはさみながら、おそらく1511年の末には、最終的にヴィッテンベルクに移転を終えた。「新しい道」の学風の影響は、神学研究が深まるにつれて大きくなり、それとともに、問いも深まりつつあったことを、当時の資料は示している。その頃、講義を始めた中世の神学教科書、ペトルス・ロンバルドゥスの『神学命題集』への書き込みや、その頃読んだと思われるアウグスティヌス著作選への書き込みは、神学的な断片ながら、そうした彼の状態を知らせる最初の資料である。

 

神学教授
 
 ヴィッテンベルクに移ったルターは神学研究の最終段階へと進んでいった。同時に、修道会の要務も彼を待ち構えていたのだった。ヴィッテンベルク大学は1502年創立の大学であった。この創立間もない大学で、ルターはやがて神学教授のひとりとなる。1512年10月のことである。教授資格取得と神学博士号受領とが、この月に相次ぐ。霊的な父でもあった、ドイツの聖アウグスティヌス会修道会の副総長シュタウピッツの推薦も受けてのことである。すぐに大学で講義を始めたかどうか、記録の上でしかと確認はできない。しかし、ルター自身の晩年の言葉によれば、そのとき彼は「まだ、その認識に到達してはいなかった」という。自ら問いをかかえてはいるが、その問い自体をまだはっきりとはつかみかねており、したがってまだ答えに手をかけるに程遠い29歳の神学教授であった。
 
 いつ、その認識―宗教改革的認識に到達したのかは、ルター研究の中で未解決の大きな問題のひとつである。それが伝記的に確定されないだけではない。宗教改革的認識とはなんなのか、という初期ルターの思想内容に深くかかわる解釈の問題でもある。認識の内容が確認されれば、初期の資料の中にいつどの時点でそれが登場してくるかを明らかにすればよいわけだが、絡みあった糸を解きほぐすようなものだから、事は決して容易に解決しない。その認識の萌芽が見えた時点をとるか、その認識が彼の思想の中に中心的なものとして位置づけられた時点をとるかでも、解答は違ってくる。しかし、若い神学教授の最初のいくつかの聖書講義が、この問題に対する豊かな資料を提供してくれることは確かである。

 

3.宗教改革者となる
 
第一回詩編講義
 
 最初のいくつかの講義は、いずれもなんらかの形で、その内容が私たちの手もとに提供されるに至っている。ただ、注目すべきことには、それらの資料がいずれも19世紀末から20世紀はじめにかけて次々と発見されたという事実である。ほぼ400年間、これらはそれぞれのところで古文書の束の中で眠っていたことになる。『ローマ書講義』の場合のように、図書館の陳列ケースの中に展示されていたのに、それがルターの手稿とは思われていなかった例もある。どこをどう経由したのか、ローマのヴァティカン図書館の古文書の中から探し出されたローマの信徒への手紙、ガラテヤの信徒への手紙、ヘブライ人への手紙の講義の学生筆記のノートもある。ヴォルフェンビュッテルとドレスデンで発見された詩編講義のルター手稿もそうである。これらいずれもが、初期ルターの思想発展の跡を示す決定的に重要な鍵を提供してくれることは言うまでもないことである。
 
 当然のことだが、若い教授ルターは自分の最初の講義のために、できるかぎりの準備をして臨んだ。ウルガタ版ラテン語の詩編を、書き込み用に行間をあけて別刷りさせもした。その上、それには、詩編をどう読んだらよいかについて、自分の見解を短く述べた序文をつけている。詩編150編をすべて、イエス・キリストの祈りとして理解するというのがその主旨である。もちろん、当時の標準的な注解を参考にし、そこからもたくさん引用はしているのだが、詩編すべてをキリストの歌として理解するというのは注目されるべき点である。旧約聖書も新約聖書も、キリストを中心として、その十字架を中軸に据えて読むという姿勢がここに示されている。
 
 しかし、この講義の背後に、ルターの内的葛藤があったことは確かである。問題は、いくつかの詩編をきっかけにして、彼の内に明瞭な形をとってきた。晩年のルターは、修道院入りの際の自分の課題を「いかにして恵みの神を獲得するか」というところにあったとするが、詩編に示されている神は、義の神であるか、恵みの神であるかという問題であった。義の神ならば、どのようにしてこの神の恵みを獲得できるのかは、詩編講義のためばかりでなく、ルターの修道生活全体にとって重要な問いであった。すぐれた古今の修道士にひけを取らないという自負も、この問いのまえではいつもなんの力ももたなかった。恵みの神を獲得したという確信は得られなかった。義であって、義を要求する神と、義を満たしえないおのれの姿との距離に気付かされて、戦いは内に絶望的な様相を呈していたと思われる。
 
 宗教改革的認識に至る重要な一歩が、この頃、1514年の秋に印せられたことは確かであろう。「神の義」についての理解をめぐってのことである。神はその義をもって、人間がその義の水準に到達することを要求するのではない。神はその義をもって、人間を義(ただ)しい者にしてくださるのだ、という認識である。人間は神の要求に応え、それを満たすことによって神の恵みを獲得するのではなくて、神の義を恵みの賜物として受けて、義しい者に造りかえられるという理解である。晩年のルターはこの認識が彼に対して「天国への門を開いた」と表現している。さらには、この認識と関連して、キリストにかかわることがわがこととなるという認識も、詩編解釈の中に強く現れてくる。
 
 1513年夏から15年秋にかけて詩編全体の講義を終えたルターは、続いてローマの信徒への手紙(1515年冬―16年秋)、ガラテヤの信徒への手紙(1516年秋―17年春)、ヘブライ人への手紙(1517年春―18年春)の講義をしている。ラテン語聖書本文への注と講解という、中世以来の聖書講義の伝統に従いながら、その間、彼が聖書から読み取ったものは、当時の教会に向けて問いとならずにはいなかった。注目すべきは、ルターにおいて宗教改革が、教会慣習や組織への批判を先触れとしてではなく、聖書との取り組みの中から得られた福音の理解に基づいて起こったということである。

 

95個条
 
 「信仰にとってキリストがすべてであるかどうか」がルターの関心事だった。大学での講義ばかりでなく、ヴィッテンベルクの町の教会でも、ルターは聖書から得られた福音理解を民衆への説教の形で説きはじめていた。最近見出された資料は、ルターがごく初期からドイツ語で民衆に説教していたことを示すものとして注意を引いている。「ある人にとってキリストがなにものかであるならば、その人にとってほかのすべては無であるが、ある人にとってキリストが無であるならば、その人にとっては絶えずほかのすべてのものが大なるものである」という言葉で、ルターは1516年(1517年という説もある)10月31日の説教を始めている。キリストにすべてを委ねて生きる、そのような生き方に民衆を導くことを、ルターは説教者として、魂への配慮をする者(牧者)として願っていた。
 
 具体的なきっかけを与えることになったのは贖宥券販売である。贖宥とは、罪を懺悔して、司祭から罪の赦しの宣言を受けて後に課せられる償いの免除のことである。自ら生前にその償いをすべて果たすか、果たし切れない償いを死後煉獄で苦しむことによって果たすかのかわりに、聖人たちの余分の善行の功徳を分けてもらうという教会慣習である。その頃、それは金銭と引き替えに大がかりに売られていた。ローマ公認でマインツの大司教が売り出した贖宥券の販売が、販売説教者テッツェルの巧みな弁舌によってヴィッテンベルクのすぐそばの町々にまで及んでいた。ヴィッテンベルクでも、選帝侯フリードリヒ公秘蔵の聖遺物公開(毎年11月1日だったという)にお参りをすれば、贖宥状が得られた。罪を真剣に受け取り、しかもその罪がキリストの十字架のゆえにまったく恵みのみによって赦されることを信じるかわりに、こうした贖宥によって罪がいい加減にあしらわれ、キリストの恵みがないがしろにされることに、ルターは黙っていられなかった。単に教会慣習の問題ではなく、民衆の魂の問題だった。
 
 1517年10月31日、ルターは贖宥に関する95個条の提題をまとめて、これによって、教会の教理上も、神学上もまだ明確に定まってはいないが、慣習上ひとり歩きで弊害をもたらしている事態について、神学者たちの討論を呼びかけようとした。その日、彼はこの提題に書状を添えて、教会の上司、マインツの大司教アルブレヒトとハルバーシュタットの司教とに送っている。この提題を、ヴィッテンベルクの城教会の扉に掲示したと言われているが、事実として異論をはさむ研究者もいる。その日に掲示をせず、翌11月1日に掲示をしたのだと言う者も、そもそも掲示はなかったのだと言う者もいて、今私たちが手にしている資料だけでは、最近のこれをめぐる論争に決着はつけられそうにない。
 
 しかし、この提題の存在も、それが「天使が自ら使者になった」かのように短時日のうちに各地に広まり、反響を呼んだことも事実である。反対と賛成とが次第に渦巻いていった。事態は、ローマの教皇とその周辺が、「ドイツの田舎修道士たちのけんか」と見たよりもはるかに深刻な展開を見せていった。そういう意味で、一連の宗教改革の動きに口火を点じた時点として、以来10月31日が宗教改革記念日とされているのである。
 
 その頃のルターの姿勢は明瞭である。自らが聖書との取り組みから学びとったものを、この問題にぶつけて自分の見解をまとめてはみたが、それに対する見解が他の神学者によって、聖書を根拠として示されるなら、謙虚に聞いていきたいという態度である。同じ姿勢で、ルターは、もっと神学の基本に触れる討論を、翌1518年4月ハイデルベルクで行なっている。

決断を迫られる
  
 「ルターの一件」を俎上にのせて、異端嫌疑の審問がローマの手で始められるのは、6月のことである。ルターをローマに喚問すべしとの動きも圧力もあった。皇帝後継問題をめぐる政治的な駆け引きもからんで、ルター審問は結局、ドイツ国内で行なわれることになり、10月、折からアウグスブルク国会に教皇特使として来ていたカエタヌス枢機卿による公式の審問が行なわれた。神学討論とか講義とか、説教の形でなく、公式の審問の場で見解の表明を求められたという点で、宗教改革史上、余り目立たないが重要、いや決定的な一歩であったと思われる。ルターが所説撤回の要求を拒否したことだけではない。内容的に見ても、神の約束のことばへの信頼が強調されるという点で、宗教改革的認識の深まりがほぼ完成に至ったとされてよいのも、この頃である。
 
 公式の場ではなかったが、公開の討論の席であったという点で、次に1519年7月のライプチヒ討論も重要である。それに至るまでの時期、ルターとその周辺への裏面工作も活発であったが、その中でルターにも論敵にも問題の所在の中心が明らかになってきていた。教会の権威の問題である。ライプチヒでのエックとの討論の中で、ルターが「教皇も公会議も誤ることがある」と明言したことによって、事態はいずれの人にとっても、黒白の態度決定を迫るものともなった。この討論の結果は当然のことながら、教皇側からは翌20年6月の破門威嚇の大教書「エクススルゲ・ドミネ」という、ルターへの最後通告の形で示されることになった。

 

宗教改革文書の刊行
 
 教皇側がそういう形で「ルターの一件」処理の方針を明確にしたことは、他方には、ルターの見解への同調者が確実にふえていったことでもある。すでに初期の聖書講義によって、ヴィッテンベルク大学の教授、学生はルターに与する姿勢を明らかにしていた。九五個条以来、ルターの主張はより大きな広がりをもって受けとめられていった。それは聖書にもとづくルターの宗教改革的思想が、次第に運動の形をとっていったことでもある。
 
 ルターの思想が運動として展開していくには、三つの形をとったと思われる。第一にあげるべきは説教である。すでに触れたとおり、ルターはごく初期から、民衆に語ることにも努めた。ルターの宗教改革的思想に接し、それによって革新されていったのは、単に大学人、知識人だけではなかった。一般市民が説教の聞き手として、福音を受け入れていったのである。また、彼と信仰を共にする人々や彼のもとで育てられた若い人々が次第にヴィッテンベルク周辺や各地で、これまた説教者として活動をはじめていった。こうして宗教改革の思想は説教という、語られる生(なま)の言葉を媒介とする、生きた人格的触れあいによって多くの人々に伝えられ、受けいれられ、共鳴を呼んだのである。
 
 しかしこれらの説教は主として都市に限られたから、それに接することのできた人の数も限られていた。そこで、大きな影響力をもったのが文書である。宗教改革運動は説教運動として広まったばかりでなく、第二には文書運動として広まった。15世紀半ばグーテンベルクによる活版印刷術の発明以来、これは特にルネッサンス、フマニスムスにおいて大きな貢献をした。しかし、これが大衆的基盤における媒体として大きな役割を果たしたのは、宗教改革においてである。両陣営は、ちらしやパンフレットの形で、自らの主張を訴えようとした。そうしたたぐいの印刷物は、おびただしい分量に及んだはずである。第三は教会慣習の改革運動である。ルターとヴィッテンベルクの場合は特に、これは後述するとおり、比較的あとから始められる。
 
 ルター自身、文書を実に有効に利用した。文書をとおして彼は広い範囲の人々に問いかけ、訴えることができた。ラテン語の著作は広くヨーロッパ全体の知識人に訴えることができたし、ドイツ語の著作はドイツの民衆に語りかけることができた。すでに早く1516年からルターは印刷への関心を示しているし、95個条の平易なドイツ語版も公刊されていた。その後論争のやりとりの中で公にされたいくつかの著作に次いで、1520年は、宗教改革的思想をもって各方面に訴えるという点で実りの多い年であった。その年の特に後半、単に「三大」ではなくて、少なくとも五つの「宗教改革的文書」が矢継ぎ早に出版された。『教会のバビロン捕囚』だけが、サクラメント(秘跡)についてのカトリック的理解に対する神学的批判という内容からしてラテン語で書かれているが、『キリスト教界の改善に関してドイツ国のキリスト者貴族にあてて』、『よい行ないについての説教』、『キリスト教的人間(キリスト者)の自由』(これはラテン語版もある)、『ローマの教皇制について』などがドイツ語で書かれている事実は、宗教改革的思想を民衆に説くことに、いかにルターの関心が大きかったかを示していよう。それらは、信仰による生き方の基本に触れ、また、教会と教界の改革と改善を訴えるという点で、きわめて深い影響を人々に与えたと思われる。

 

4.宗教改革の展開
 
決定的決裂
 
 60日の期限付で、所説の撤回を要求し、破門を威嚇した大教書がルターの手に渡ったのは1520年10月11日のことであった。その期限切れの12月10日、小さな事件がヴィッテンベルクのエルスター門外の広場で起きた。ルターが大教書を、教会法令集やスコラの神学書とともに火中に投じたのである。それは、単に大教書に対して否と答えただけではない。もっと広く、そのような大教書を支える体制全体、教会法令集に示される当時の教会に対する、ルター自身の、訣別の明白な意思表示であった。所説撤回の要求も、それを根拠づけるために列挙された四一個条に上るルター論難も、さらにそれを支えた法令集も、以後のルターにとってはなんの意味をももたないことの宣言である。明けて1521年1月3日、ルター破門の教書が発せられても、それはローマが次にとるべき当然のステップであったとしても、ルターにとってはなんの意味ももたなかった。
 
 中世たけなわのことであれば、教会からの破門はただちに社会的抹殺を意味した。フスの場合のように火刑に処せられたり、あるいは帝国法の保護からはずされる帝国追放(アハト)刑に処せられたものである。しかし、ルターの場合には、時代も、国際情勢も、ドイツの国内事情も、そのような形での一件の処理を許さなかった。
 次の措置は、皇帝の往復路安全保証を与えて、ルターを1521年4月、ヴォルムスでの帝国議会に正式に喚問するということだった。ここでも所説の撤回を求められたが、一介のやせた修道士、田舎大学の教授にすぎないルターが、この世的には保護するもの、頼るものをなにひとつ身にもたないながら、断乎として語った言葉は世界史的意義すらもつと言ってよい。ルターの側で言えば、ただひとつ、聖書の示す真理が明らかになることであった。しかし、国会の側で言えば、なしうべき決定はやはり、ルターへの帝国追放刑と、同調者は同罪ということでしかなかった。
 
 だが、このときのただひとりの発言が、1529年の第2回シュパイエル国会での抗議文書(プロテスタテイオ)提出の際には一九人の諸侯、都市代表となり、次の年の「アウグスブルク信仰告白」提出から、さらに1555年の「アウグスブルク宗教和議」へと、幾多の曲折を経ながら展開していくことの意味を思わずにはおれない。

 
ワルトブルクで
 
 ヴォルムスよりの帰途、ルターは「襲われて」、行方知れずとなる。事実は選帝侯フリードリヒの指示による保護でもあり、ある種の検束でもあったのではなかろうか。5月から翌年3月までの9ヵ月間、ルターはワルトブルク城内に、貴族ヨルクとしてかくまわれることになった。この孤独の時期を、彼は著作活動のために有効に用いる。今日では、ドイツでカトリック教会の出版社からも出版されるに至った「マグニフィカート」(ルカ一章のマリヤの讃歌)の講解を完成させたのもここでだし、教会暦のうち、クリスマス前後の主日(日曜)ごとのために定められた聖書日課にもとづいて、「標準説教集」第一部ともいうべきものをまとめたのもこのときである。先に述べたように、宗教改革がなによりもまず説教運動として拡大していったことを考えるなら、このような説教集がとりわけ各地の説教者に与えた影響は大きかったと言わなくてはならない。また、『修道誓願についての判断』というかなりの大著を著して、カトリック修道制を批判したばかりでなく、信仰的に自らの修道誓願を克服し、廃棄するに至ったことも重要である。しかもこれは、父に背いて修道院入りした息子が、キリストの福音にあって父と和解するという意味すらもった。

 

聖書の翻訳
 
 もっとも特筆すべきは、新約聖書のドイツ語訳の完成である。1521年12月に着手して10週ほど、2月にはこれを完成している。ウルガタ版ラテン語聖書をも用いたようだが、ギリシア語原典により、福音をドイツ人の心に伝える生き生きとした翻訳である。ルター以前にもドイツ語訳の聖書がなかったわけではない。しかし、当時まだ各地の方言に分かれていたドイツ語の状況の中で、主としてザクセン宮廷のドイツ語によりながら、ほぼ民衆の生きた言葉で、福音を読むことを可能にしたという点で、貢献は大きい。
 
 このドイツ語新約聖書はその年9月には出版され(「9月聖書」と呼ばれる)、大きな反響をもって人々に歓迎されたのだった。その後ルターは生涯かかって新約の部分にも手を加えたし、旧約部分についてはヴィッテンベルクの同労者たちの協力も得て完成させ、全聖書を1534年に出版している。各部、各書に付された序文は、それぞれに聖書の読み方、その核心について適切な導きを与えるものとして、それ自体すぐれた著作と言いうるが、文体の上からも、また、ドイツ語史上ドイツ語統一に果たした役割から見ても、特筆すべき意義を有している。ドイツのプロテスタント教会が今日でも、多少の改訂と現代語化をしたうえで、これを用いている事実も、この意義を示すものと言えよう。

 

再び改革運動の渦中へ
 
 ルターのワルトブルク滞在によって、宗教改革ははっきりと、ルター個人のものから、ヴィッテンベルク宗教改革運動という形へ移っていった。ルターのいないヴィッテンベルクでも改革は進行していった。しかし、運動の主導権をカールシュタットが握り、彼が性格的にも思想的にも霊的、直接的、急進的改革の流れに与していくことによって、ルター不在のヴィッテンベルクは繰り返し一種の混乱状態、騒擾状態を迎えた。1521年12月の騒擾はなんとか収まったが、1522年2月には修道院解放、聖像破壊、教会慣習の急激な改革によって収拾不能のような状況に陥った。市参事会はルターに帰還を要請し、ルター自身もまた、選帝侯の反対を押し切って、身の危険を顧みず、3月はじめヴィッテンベルクに帰還している。
 
 一週間にわたる連続説教で、彼は民衆に向かって、みことばを聞くことによる信仰の確立と、その信仰に根ざした隣人への愛とによって改革を徐々に、心から外的慣習へと進めていくべきことを訴えたのだった。ここにはもちろん、ルターの保守的な体質があらわれていると批判することもできよう。しかし、改革を進めるに当たってルターがとったこの基本的姿勢の意味も、十分認められなくてはならないと思う。信仰の強い者が自分たちだけで、自分たちだけのために、改革を進めていくのではなくて、信仰の強い者が弱い者のことを配慮し、ひとつ心になって少しずつ少しずつ、一歩一歩改革を進めていくという姿勢は、決して見過ごされてよいことではあるまい。
 
 この結果、すでに一部の人々によって導入されていた改革は一時、再びもとの状態に引きもどされた。福音の説教によって、まず民衆のひとりひとりの心に語りかけ、これを変革していくという地道な努力が重ねられていくことになった。ヴィッテンベルクをはじめ各地の教会や市参事会の具体的な要請に基づいて、改革に関する種々の具体的提言や、牧師としての勧告という形で、改革のプログラムを示していくようになるのは、1523年から24年のことである。そこには礼拝改革や、牧師選任などそれぞれの教会固有の問題もあれば、この世にある教会の責任として、教会財産の解放に伴う共同基金設定の問題、この世の権威にかかわるキリスト者の基本的な姿勢の問題、各都市に開設さるべき学校の問題など、多岐にわたるものが見られる。それらには、『キリスト者の貴族にあてて』以来、キリスト者と教会とが歴史形成に参与していくということについて改革の初期から訴えてきた、ルターなりの基本的見解と実績とが明らかである。

 
深刻な危機
 
 ルターとその宗教改革運動ははじめから危機的でありつづけた。それは単に、中世を貫いて西欧世界を一枚岩として支えてきた「キリスト教的一体世界」からする、異質的なものに対する圧迫のゆえに、ルターと運動自体がさらされていた危機であるだけではない。その危機なら、ルター自身すでに早くから思い定めており、いつとも知れぬわが身の生死について覚悟のなかったことではない。100年前コンスタンツ公会議で異端宣告を受け、火刑に処せられたボヘミヤのフスの場合を思ってみただけではない。そのフスの所説に、耳を傾けるべき点があり、あの処置は公会議も誤りうることのしるしであると公言して以来、フスの道は十分ルターとその運動、また同調者の道でありえたのである。ただ、当時の国際情勢(たとえばトルコのヨーロッパ侵入)、ヨーロッパ情勢(カール五世、教皇たち、フランス王などの確執)、ドイツ国内事情は、政治も経済(たとえば財閥フッガー家との関係)もからみ合って、この「異端」の人物と運動とについに断乎たる処置を取りえないで終わっただけのことである。
 
 他方逆に、ルターとその改革運動は、教会のみならず、「キリスト教的一体世界」に対して危機をもたらした。後のルターとその運動の展開、たとえば農民戦争に対するルターの態度を見ても、領邦君主主導の教会体制に向かう上からの改革への移行を見ても、ルター生前から死後に及ぶ諸侯の宗教(実は政治)同盟を見ても、「一領内の教派は領邦君主の決定するものに限る」ことを骨子とするアウグスブルク宗教和議(1555年)を見ても、ルターを含めて当時のすべての人が、危機にさらされた「キリスト教的一体世界」の観念から抜け出ることができず、なんとかそれを小型にして一応の体制と秩序を回復しようとしたことは明らかである。
 
 しかし、ここでは、改革の途上、特に1524、25年の頃に、ルターとその運動が経験せざるをえなかった深刻な危機に触れておきたい。改革の急進化と、それがもたらした混乱からなんとか立ち直りを見せていた頃、そうした経過ともからみながら、ルターはその陣営や周辺からいくつもの大きな勢力を失い、袂を分かつことになった。

熱狂主義との対決
 
 ひとつは、熱狂主義である。これは、すでに1521年のヴィッテンベルク改革の急進化の中心人物だったカールシュタットをはじめ、各地に起こりつつあったひとつの傾向であり、後に農民戦争の一翼の指導者となるミュンツァーもこれに入る。ルターから見ると、熱狂主義者は同じような傾向を有していた。ひとつは聖霊の直接的な働きの強調であり、いまひとつは改革の律法化(すべてを「すべき」ことと考え、強制していく)である。これに対してルターは、聖霊が神のことば、聖書とともに与えられるのであり、聖書と聖霊とは信仰者にとって切りはなせない関係にあるものであると答えたし、また、宗教改革は福音と、それが与える自由のうちにあるべきで、ことを「すべし」という強制で押し進めていってはならないのであり、むしろ愛をもって弱い兄弟への配慮の中で改革を進めていくべきであると応じたのである。
 具体的には、カールシュタットのヴィッテンベルク追放を中心として、この傾向の人々と明確な一線を画す方向に展開していき、農民戦争とからんで、ミュンツァーとも激しい応酬があった。こうして、社会的には今日の眼で見て、ルターより進んでいたと思われるミュンツァーの場合のように、社会革命の方向に向いた者や、逆にまったく個人主義的な聖霊主義に向かったものなど、熱狂主義はいくつもに分かれ、多くは迫害の中に圧殺されていくが、ルターはその福音理解のゆえにこれに反対する姿勢を変えなかった。こうして、ルターに触発されその改革運動に加わった人々のうちの、かなりの部分をルターは失うとともにそれがもたらした混乱の責任を、自ら負わねばならないことになった。

 

農民戦争の中で
 
 第二の危機は、宗教改革運動からの、農民運動の分離である。中世末期の政治および経済情勢の変化の中で、圧迫を受けていた農民の運動は各地で散発的に一揆の形をとっていたが、1524年、25年にかけてはじめて同じ時期に、きわめて広範囲にわたって展開された。一連の一揆の発端は1524年6月シュヴァルツヴァルトにおけるものであり、翌年シュワーベン(3月には「12個条」を発する)、メミンゲンと広がり、5月フランケンハウゼンにおける農民の敗北、ミュンツァーの捕縛、処刑により急速に衰微した。
 
 これらの急な展開の中で、諸侯の対応はもとより、ルターの対応自体も時にかなって適切であったとは言いえない。生命の危険を冒してのものであったとはいえ、1525年4月後半、農民運動の起こった地方に旅行して、自ら説得を試みようとした努力はまったく農民たちに受け入れられなかったし、『農民の一二個条に対する平和勧告』をはじめ、『農民の殺人・強盗団に抗して』や『農民に対する厳しい小著についての書簡』にしても、その基本的姿勢はともかく、事態の急な展開の中ではまったく後手にまわり、むしろ逆効果すら招いたとさえ言わなくてはならない。しかし、ある意味ではかたくなとも思える、また、人によれば農民への裏切りとすら解されるルターの態度の基本には、ふたつの論拠があった。福音が農民たちの世俗的関心と利益に仕えるために用いられている、ということと、農民の社会的要求の大部分は社会的正義の点で認めるべきものであり、多くの点で支配者がその責めを負い、また、改善に努めねばならないのだが、その主張を暴力に訴えるに至っているという2点への反対である。
 
 これによってルターは福音が社会的、政治的原理に変質されるのを防ぎはしたが、他面、農民大衆の支持を失うことになった。特に南ドイツのかなりの地方では、農民に対する諸侯の勝利は、ただちにカトリック教会による対抗改革の勝利ということにもなった。ルターは農民運動へのかかわりの比較的初期から、農民の利己的関心を見抜いて、福音の純粋性を守るために、これと一線を画して踏みとどまって、大衆の支持を失ったが、ミュンツァーはその熱狂主義的傾向ともあいまって、農民運動のただ中に身を投じ、その生涯の欲せざる終わりに、農民の利己的関心による社会革命の挫折を痛感して処刑されたという、ふたつの悲劇をここに見ることができよう。

 

5.「突破」に生きる
 
フマニストとの訣別
 
 第三の危機はフマニスト(人文主義者)との関係において生じた。教会教理の固定化や教会権威に対して反対の傾向をもっていたフマニストたちが、その面からルターの改革に対して歓迎の意を表していた時期もあった。しかし、フマニスムスが人間中心的、合理的、現世指向的であるのに対して、宗教改革は神中心的、非合理的、終末的であるという根本的なちがいは早晩現れずにはいなかった。1524年フマニスムスの大立者エラスムスが『評論 自由意志について』をもってルターに挑戦したのに対し、1525年になってルターは『奴隷的意志』をもって応じた。その結果、この論争はフマニストの陣営を二分することとなり、一部はルターの側にとどまり、大部はルターから離れて、対抗改革に際してカトリック諸侯のイデオローグとなるということになった。

 

ルターの結婚
 
 1525年6月、ルターは元修道女カタリーナ・フォン・ボラと結婚した。もちろんルターにとってこれは、すでに4年まえ『修道誓願についての判断』の中で、基本的に表明したことの、いわば帰結にすぎなかった。ある意味では、あの基本的表明こそ真に重要であって、それがただちに結婚という具体的事実につながることをルターは考えていなかったらしい。宗教改革運動の中で自分が置かれている状態、生死の知れない境遇を考えるとき、彼にとって結婚は現実の問題でなかったと思われる。他の多くの場合と同様、いくつかの偶然の積み重ねのようなものが見られないわけではない。
 
 しかし、この結婚によって危機がいっそう深められたとも言える。その意義は大きかったし、多くの人々がそれを認めはしたが、宗教改革の拡大という面から考えると、むしろそれを阻止するという結果になった。理論的にはともかく、元修道士と元修道女という、いずれもかつて一度は、終生独身であることを誓願した者同士の結婚は、中世の一般通念にとって抵抗なしでは受け入れがたいものであったし、カトリック側にせよ、熱狂主義の一部にせよ、禁欲的傾向を強くもつ人々は、これに拒絶反応を示した。他の場合でもそうだったが、ルターの場合にその反応は特に強く、攻撃も集中した。
 
 ここに挙げた四つの危機に示される事態は宗教改革運動自体に大きな転機を与えるものであった。改革運動としての具体的な展開はこれまで、下からの、民衆的基盤の上にあってなされたし、ルター自身もそれを期待し、そのように指導していた。しかし、これら一連の危機の中で、そのような下からの改革は不可能と思えるようになった。

 

領邦教会制
 
 下からの、民衆運動としての宗教改革運動の終わりは、宗教改革自体の衰退ではなかった。1525年を境として、新しい要素、領邦君主が前面に登場する。ルターのいたザクセンの場合でも、これまで選帝侯フリードリヒが宗教改革に無関係だったわけではない。彼の場合、主として政治的関心からだったにせよ、領内でのルターおよびその運動をそれなりに保護する姿勢をとってきた。しかし、宗教改革が、運動から一種の体制化を迫られたこの時期に、責任ある、秩序をもってなされる改革のために、これまでのカトリック教会権威にかわるものとして、ルターがその主導を求めたのは領邦君主の権威だった。
 
 少なくとも一時期、宗教改革の教会の体制が秩序立てられ、整うまで、ルターは、教会のメンバーのひとりである領邦君主が「非常時の監督」として、いくつかの具体的施策を教会問題に対して施すよう期待した。やがて、その結果、教会巡察制度が確立し、それに伴う教会規則が各地に制定されて、宗教改革の教会が一応の形を整えることになる。しかし、ルターが期待したところと異なり、領邦君主主導の教会体制は宗教改革の及んだ諸領邦内で以後長期にわたって固定化することになった。もちろんそれには、ドイツ国内の政治情勢も関係がある。すでに1524年、最初のカトリック諸侯同盟が結成されており、それに対抗してプロテスタント諸侯同盟が必要とされ、後のシュマルカルデン同盟となるというドイツ国内の力関係が影響している。先に述べた「キリスト教的一体世界」の観念から抜けられないということもある。たび重なるトルコのヨーロッパ侵入に対する、キリスト教世界防衛の意識も微妙にからんでくるのである。

 

6.晩年のルター

 
晩年の活動
 
 宗教改革のはじめの数年のように、劇的な事件は、ルターの晩年にはもはや起こっていない。しかし、それは、ルターがなにもしなかったということでも、ルターが宗教改革の展開に対して指導力を弱めたということでもない。資料にもとづいて編集された『ルター・カレンダリウム』という本には、生涯の日々を、ルターがどのように過ごしたかが、資料にもとづき調べうるかぎり克明に書き出され、一覧の表とされている。
 
 ワルトブルク滞在をはじめ、1530年のコーブルク滞在など止むを得ない中断が何回かあるほかは、ルターは終生ヴィッテンベルク大学で聖書講義を続けている。主として旧約聖書の諸書の講解講義であるが、特に1531年のガラテヤ書(大)講義や、最後の10年を費やした創世記講義は晩年の彼の神学を知るうえでも大変重要だし、当時も後続の学生たちに大きい影響を及ぼしたであろう。また、毎年100以上に及ぶ説教が残されていることからしても、ヴィッテンベルクの教会や、旅行先の教会での説教活動は彼の関心事のひとつであった。

 著作の数も年々、増加している。信仰の勧め、具体的勧告などから、最晩年の『公会議と教会について』などのように、生涯の神学的な営みをまとめるようなかなり大きな著作も多い。残されたものだけを見ても、それぞれに味わいのある牧会的内容の豊かな数多くの書簡がある。当時のもろもろの状況を考えるならば、こうしたすべてに、超人的に近い精力を必要としたと思われる。しかも晩年の、学生、同労者たちとの会話の筆記をまとめた『卓上語録』は、ひとり書斎にこもるルターではなくて、生のあらゆる問題について、時にははだかとなって交わりの中に生きているルターを示してくれる。
 
 しかし、晩年の彼がそのような働きのために、十分健康に恵まれていたとは言えない。1527年夏、折しもヴィッテンベルクにペストが流行し、大学を含め町の人の多くがそこをしばらく離れたころ、ルター自身は病を得て、町にとどまっている。精神的にもいわば「うつ」の状態にあったであろうと思われている(しかもその時期、彼の讃美歌の中でも最も有名なもののひとつで、今日ではカトリック教会においても歌われる「わが神はやぐら」が作られている)。以後のルターは決して健康ではない。当時の寿命を考えると、ルターは長生きのほうに入るだろう。1537年、プロテスタント神学者の集まったシュマルカルデン会議の折には結石を病んで、瀕死の状態にまで至っている。

 

ルターの最後
 
 人々はルターを必要としていた。ヘッセンのフィリップ公のように、政治的動機からにせよ、宗教改革陣営の大団結を目指し、そのためにもルターが必要なことを見てとって、チューリヒ改革運動のツヴィングリとの会談(1529)を実現させた人もいた。このときには、ルターは、フィリップの政治的動機に従うのでなく、自らの神学的見解に厳密であったので、両者の相互理解は成立しなかった。他の場合でも、しばしばルターは相談を受け、調停を依頼されている。そのような調停の旅先で、ルターは死を迎えることとなった。生まれた土地であるアイスレーベンで、1546年2月18日のことであった。
 すでに1530年アウグスブルク国会に、要求されてルターの側が提出した「アウグスブルク信仰告白」によって、その教理的な共通の立場はかなり明瞭にされていた。問題をはらんでいたにせよ、領邦教会という形での組織化もできた。1531年ツヴィングリの死後、1536年には「ヴィッテンベルク和協」により、南ドイツ宗教改革との一種の和協が成立した。しかし、反面、宗教改革の政治化の過程の中で、カトリック諸侯とプロテスタント諸侯の宗教戦争の兆しがあった。そのようなシュマルカルデン戦争の足音を聞くような時点で、彼は死んだことになる。

 

ルターの評価
 
 トレルチのように、彼を中世との連続の中でとらえる人もいる。たしかに彼は中世的な枠の中で生きたとも言える。しかし、中世ももっていた問いに、中世が出しえなかった答えをもって答えたのである。そこには、ひとつのたしかな「突破」がある。ルター自身、純粋にキリスト信仰に立って、自らの「突破」を見つめ、その帰結を生涯かけて求めつづけたのだった。そのことが、彼の人間的弱さのゆえにも、彼の状況判断の不十分さのゆえにも、また、彼をとりまく状況のゆえにも、決して一直線に、誤りないものとして引き通されているというわけにいかない。自ら繰り返し述べていたように、所詮ルターもひとりの人間にすぎず、「蛆虫のいっぱい詰まったずだ袋」にすぎない。しかし、そこに私は、生涯かけて、キリストにおいて自己を恵みの神として啓示し、人間に限りなく近づく神のゆえにこそ、呼び出され、召し出されて、はじめてひとりの「人間」になり、そのような呼びかけを聞きつづけたひとりの人の生涯を見ているのである。

 

 

 

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