ルターによって開始された宗教改革500年を2017年に迎えます。ルターはとても有名な歴史上の人物で、キリスト教と聞いて日本人が思い浮かべるベスト・スリーに入ります。1位はイエス・キリスト、これは当たり前です。2位がザビエル、そして3位がルターでしょう。ところが、それほど有名ですが、しかしその人生や思想はどことなく曖昧にしか知られていません。

 

 そこで私たちはルターをしっかり学びたいのですが、その際、留意点が2つあります。 1つは、ルターを学ぶとき、その最重要なポイントを、まずはくっきりと学ぶことです。抽象的な込み入った教理に頭を突っ込んだり、二次的三次的なエピソードに深入りする前に、まずはルターの一番大事なところを重点的に学ぶことが大切です。  

 

 2つ目は、ルターを学ぶためには、彼の人生をたどることが一番、早道だということです。ルターという人は、その生き方(人生)と思想(信仰)がとても深く結びついていた人でした。頭の中や、感情だけの信仰ではなかったのです。彼が人生のただなかで悩み苦闘した問題と、信仰(思想)が結びついていたのです。まさに「実存的信仰」です。  

 

 この2点に留意しながら、以下、ルターの人生の時を、7つの局面に区切って、学んでゆくことにします。マルティン・ルター、人生の時の時です。

 

(1)誕生(1483年、0歳)―「近代」という時代の幕開け

 

 ルターは今から500年前の人ですが、時代は1000年間続いた中世が終わり、近代という時代が始まろうとしている、そのまさに中間の時に当たります(日本で言えば、室町時代から戦国時代)。よくイタリアの「ルネサンス」とドイツの「宗教改革」が近代の幕を開いたと言われていますが、近代を特徴づける(初期)資本主義の勃興期です。事実、ルターの父親はいうなれば初期資本家の一人です。彼はもともと銅山の作業員でしたが、よく働き立身出世し、のちには鉱山の所有者、市の参事会員にまでなったのです。そういう家庭にルターは生まれました。  したがって、ルターの教育環境はとてもめぐまれたものでした。5歳でマルスフェルトのラテン語学校、14歳からはマグデブルクやアイゼナッハの学校、そして18歳でエルフルト大学で法律を学ぶための勉強を始めます。当時の大学生はエリート中のエリートでした。

 

(2)落雷(1505年、22歳)― 青年の危機(信仰の葛藤)  

 

 ところが、そういうルターに突然、危機が襲いかかるのです。1505年7月2日、両親の下への帰省からエルフルト大学へ戻る途中、シュトッテンハイム村の近郊で落雷にあうのです。死の恐怖。ルターは守護聖人アンナ様に命ごいをします。とっさのことでしたので彼は思わず、命さえ助かれば生涯を神に捧げる、つまり修道院に入りますと叫んだのです。雷はおさまりました。命は助かった。ならば、修道士にならざるを得ない・・・。  落雷から2週間後、ルターは本当に大学をやめてエルフルトの「アウグスティヌス隠修黒修道院」に入ってしまったのです。22歳のときでした。  

 さて、ここで二つの問題が生じます。一つは、彼の心の問題、もう一つは親との関係です。 もともとルターは、特に信仰に関心を持っているような青年でなく、ごく普通の大学生でした。ところが落雷にあい、いわば引くに引けなくなって修道士になってしまったのです。

(3)塔の体験(1513年~16年? 30歳ころ)― 神の恵みへの開眼

 

 修道院で一生懸命努力したルターは、やがて修道院や大学で聖書を教える学問僧になりました。しかし、信仰の不全感は解決していない。ルターにとって神とは依然、「怒りの神」でした。

 そんなある日、ルターは「塔の体験」をするのです。ヴィテンベルクの修道院の塔の一室。(この体験の日付や、それが突如生起したのか、徐々に熟してきた体験なのか、についてはよくわかっていません)。「塔の体験」とは一言でいうと、ロマ書1章17節の「神の義」をめぐる信仰の開眼体験です。その結果、聖書の語っていることが、本当に腑におちるようになったのです。

 何が起きたのか。後年、ルターはこの体験を回想しています(『ラテン語著作全集・第一巻の序文』)。それによると―――、大きな声では言えないが、実は「神の義」ということを、ルターは憎んでいた。神様は義しいということを聞くと、不安になった。なぜなら、神が義しければ当然、その神は人間にも義しさを期待し要求する。それに答えようと人間は努力しがんばる。しかし、いくらがんばっても「怒りの神」の前では人は安心できない。神への信仰の不全感は増すばかり。ところが塔の一室でロマ書1章17節を読んでいたら驚くべきことが記されていた。「福音には、神の義が啓示されている。それは始めから終りまで信仰を通して実現される」。つまり、「神の義」は「呪い」でなく、「福音」だと書いてある。目からウロコが落ちた。開眼。どういうことか。神は「怒りの神」ではない。いやそれどころか、神は自らの「義しさ」を人間に無条件で贈与(プレゼント)してくださる。これこそ、福音。ならば人間はその与えられた「義しさ」をそのまま素直に受けとればいい(これが「信仰」ということなのである)。「神の義」をただそのまま受けとる(「受動的な『神の義』」という)。つまり少しも義しくない私ではあるが、神が自らの「義しさ」をそのままただでプレゼントして下さるがゆえに、この私は義しいと認められる。そして、これが「救い」ということなのだ。神は「怒りの神」でなく、「恩寵の神」である。神への信仰の不全感は全く解消し、いやそれどころか、ルターはほんとうの意味での神との一体感を感じたのです。信仰の確立です。

 以上が「塔の体験」の中身です。神は「恩寵の神」である。まさに「恵みのみ」です。それがすべてです。このことをルーテル教会では「信仰義認」と呼んできました。しかし、考えてみれば、より正確には「恩寵義認」と言うべきでしょう。なぜなら、人間は「神の義」を無償でいただくことによって(恩寵)、義と認められる(義認=救済)からです。人間が努力して信仰することによって救われるのではないからです。ただ、ひたすら「恵みのみ」です。そして、この体験によって、ついにルターは宗教改革運動への地固めができたのです(ですから「塔の体験」のことを、神学用語では「宗教改革的転回」と呼んでいます)。ここがルターの信仰(思想)の最大ポイントです。

 

(4)95ヶ条(1517年、34歳)―  宗教改革運動の開始

 1517年10月31日、ヴィテンベルクの城教会の門の扉に、ルターは「95ヶ条の提題」を掲示しました。これが宗教改革運動の始まりです。贖宥状(免罪符ともいう)の是非をめぐる討論会の呼びかけでした。ルター本人としては地方都市ヴィテンベルク内でのささやかな呼びかけのつもりでしたが、しかしそれは60年ほど前にグーテンベルクによって発明されていた活字印刷術によって、たった2週間で全ヨーロッパに拡がっていきました。1000年間も続いた(カトリック)教会への挑戦と受け止められたのです。ヴィテンベルクの一介の修道士ルターは、今や、全ヨーロッパで最も有名な人物となりました。

 「95ヶ条」は何を問題としているのか。第一条には、「全生涯が悔改めである」と書いてあります。信仰とは、たんに生活上の習慣ではなく、まさにその人の全生涯をかけた神との関係だ、というのです。そして全体を通じて贖宥状を問題にしました。贖宥状とは、それを買うと天国が約束されるという証書のようなものです。ローマ教皇庁は財政上の必要からもその販売を許可したのです。しかし、そこをルターは問題にしました。贖宥状を購入するといったような人間の行為(善行)で人が救われるのではない、人が救われるのは神の恵みのみによる(「恩寵義認」)。こう考えたルターは、それゆえその是非を問う討論会を呼びかけたのです。

 それは小さな一歩でした。しかしやがてこのささやかな一歩が全ヨーロッパを宗教改革の渦の中に巻き込み、結果としてプロテスタント教会を誕生させ、結局は「近代」という時代を準備することとなる世界史上の出来事となったのです。

 

(5)ヴォルムス国会(1521年、38歳)

         ― 改革運動の前進(「われ、ここに立つ」) 

 「95ヶ条」以後、ルターと(カトリック)教会との間に様々な論争(「ハイデルベルク討論」、「ライプツィヒ討論」など)がありましたが、結局ルターは「破門」されました。しかし、改革運動は前進する。改革陣営は独自の道を歩む。そして、とどのつまりは教会分裂。カトリック教会とは別の、プロテスタント教会が誕生しました。

 こうした事態を最も鮮やかに示しているのが、1521年のヴォルムス国会でのルターの発言です。ルターは神聖ローマ帝国皇帝カール5世の前に呼び出され、自説の取り消しを求められました。しかしかれは拒否、そしてこう叫びました。「われ、ここに立つ」。この言葉は、ルターによって切り開かれた近代的個人主義の曙として有名ですが、しかしそれ以上の意味を内包しています。「われ、ここに立つ」の「ここ」とはどこか。カール5世の前ということか。それもあるが、それ以上に、この「ここ」とは実に「神の前」ということです。人間とは、「人の前」で生きていくのみならず、実に「神の前」に生きていく存在なのです。

 さて、その後のプロテスタント陣営の歩みですが、その内部でも、今日から考えていささか細かな論争もいろいろありました(「聖餐論争」など)。そして、またまた分裂。その結果、同じプロテスタント教会でも、いろいろな教派があるのです。しかし、それはともあれ、プロテスタント教会の主張の一応のまとめとして、1530年、「アウグスブルク信仰告白」が発表されました。そして、その歩みの中で、ルターは数々の著作を残しました(「キリスト者の自由」、「大教理問答書」、「奴隷意志論」など)。

 ところで、こうした改革運動の中でも特筆すべきは、ルターの「聖書」への取り組みです。注目すべきことが二点あります。一つは、聖書に対する徹底したこだわりです。「聖書のみ」。この「聖書のみ」の真意は、聖書に書いてあることだけがすべて真実だということではなく、聖書はその中心点(イエス・キリストに示された神の恵み)をこそわがものにすべきだ、ということです。そして、もう一つは、ルターによる聖書のドイツ語訳です。聖書はラテン語やギリシア語がわかる特権的な人たちだけの書物でしたが、ルターの翻訳以降、すべての人の書物となりました。

 さて、ここで宗教改革の神学(思想)をまとめておきましょう。三点です。第一に「信仰義認」というか「恩寵義認」です、つまり「恵みのみ」です。(「恵みのみ」と「信仰のみ」は同じことですが、「恵みのみ」は神の側から、「信仰のみ」は人間の側から表現しているのです)。第二に「聖書主義」、つまり「聖書のみ」です。上述しました。そして第三に「万人祭司」です。万人祭司主義の要点は次の二点です。第一に、当たり前ですが、すべての人は神の前に平等だということです。そして第二に、どんな人であれ神様に対してはまるで祭司のように真剣に生きようということです。(ですから、牧師と信徒の間には当然、役割上の区別はあるのです。ちょうど「やおやさん」と「時計屋さん」は、人間としての存在価値は全く同じですが、仕事には区別があるのと同じです)。

 

 

(6)結婚(1525年42歳) ―  生きることは、山あり谷あり

 人生、生きることは山あり谷ありです。ルターもそうでした。

 まず結婚。ルターは42歳のとき、元修道女だったカタリーナ・フォン・ボラと結婚しました。従来、神に仕える修道士は独身制でしたから、この結婚は歴史的結婚です。その結果、形成された家庭は、しかし、どこにでもあるごく普通の家庭でした。いろいろ楽しいこともあり、また苦しいこともある。特別に「聖家族」というわけではありません。しかし、そこがいい。

 残された肖像画などを見ますと、ルターはがっちりしていて健康そうに見えますが(ややメタボ)、実は人生の後半三分の一は病いの人でした。便秘、胃の不快感、耳鳴り、めまい、腰痛、腎臓結石、狭心症、痛風、頭痛それに鬱。ルターの人間論を表す有名な言葉に「罪人にして同時に義人」という言葉がありますが、その説明として「病気にして同時に健康」ということもルターは言っています。ともかく、いろいろ大変でした。それでもルターは生きていく。

 いつの世も、わたしたち人間は柔軟さや努力に欠けた存在です。その人間の集まりである「教会」も、またしかり。古い考え方の習慣が抜けない、形式主義がはびこる、また無知に基づいた新しさがもてはやされ、はたまたいささか感情過多で自己中心的な熱狂的思い込みが幅をきかせる・・・。そういう意味で、教会ぐらい厄介な集団はないかもしれません。カトリック教会を厳しく批判し、改革を断行し、新しいプロテスタント教会を形成したルターではありましたが、しかし、その教会は必ずしも理想通りではない。いや、本当にがっかりさせられるような現実の連続でした。ルターは怒り、諭し、慰め、守ってきましたが、本当に疲れました。今も昔も教会形成は難しい。しかし、それでもルターはあきらめない。

 神はこの世界をつくりました。教会だけをつくったわけではありません。それゆえ当然にも、教会はこの世界のただ中に立っている。そして、そこに実に様々な問題が惹起するのです。ルターも様々な社会問題の全面に立たされました。たとえば農民戦争(1524年)。当時、農民は虐げられていた。そして、ついに領主に対して一揆に立ち上がる。ルターははじめ農民の味方でした。農民もルターの改革運動に期待し共鳴していました。ところが一揆は過激になっていく。暴力の応酬。ルターはやがて領主の側に立って農民を口汚く罵り始めました。ルターの汚点です。またユダヤ人(ユダヤ教)やトルコ人(イスラム教)に対しても心の狭い態度で接しました。いづれもルターの時代的限界というものでしょう。ルターほどの人にして、そうです。もちろん後世の我々が笑っていいようなことではありません。人生はむずかしい、山あり谷ありです。

 

 

(7)死(1546年、63歳) ― 「それでも、リンゴの木を植える」

 やがてルターは死を迎えます。体調が悪かったのですが、マンスフェルト伯家の遺産争い調停のために旅に出かけその途中で客死。63歳。死のテーブルには「わたしは神の乞食」というメモが残されていました。神の恵みに乞いすがる、ということでしょう。いささかあっけない幕切れでしたが、人生、こんなものかもしれません。しかし、それよりもルターの死生観を見事に表現している二つの言葉を紹介しておきましょう。

 一つは、14歳の娘マグダレーネ(愛称レニッヘン)が亡くなった時の言葉です。「愛するレニッヘンよ、お前はよみがえって、星や太陽のように輝くだろう。お前は安らかにしているし、万事申し分はない。と、いうことを知っていながら、しかも実に悲しいなんて、なんと不思議なことだろう」。すべてを神様にゆだねる、しかし、ルターは生涯、この娘の死を悲しんでいました。

 もう一つ。「たとえ明日世界が終るとしても、それでも今日、わたしはリンゴの木を植える」。この言葉はルターの言葉として伝えられている言葉ですが、ルターの「生きる」姿勢を、そして「死ぬ」姿勢をよく表しています。死は好むと好まざるにかかわらず向こうから迫ってくるもので、その意味で人間は受動的である他ない。しかし、そうしたことも含めて、それでも「リンゴの木を植える」。その意味で人間はどこまでも能動的でありうるのです。つまり「受動的能動性」、これがルターの人生・信仰・思想・神学の根本基調です。

 

 さて、最後に全体をまとめておきましょう。三点あります。第一点、神の恵みがすべてだということです。「恩寵義認」です。第二点。人生そして信仰も教会も山あり谷あり、その中で人間は生きることも死ぬことも受けとり受け入れ、それでもリンゴの木を植える。「受動的能動性」ということです。そして第三点目。それはこの世界が「神のすばらしき創造の世界」だ、ということです。いろいろある、人生も信仰も教会も世界も。それでも人は生きてゆく、生きてよい(「受動的能動性」)。したがって、この世界はすばらしいということです。神が創造し、それゆえ救済して下さるこの世界。だからヒロシマとフクシマの後でも、明日はとても明るい日がくるのです。「恩寵義認」、「受動的能動性」、「神のすばらしき創造の世界」。

 ルターを学ぶということは、神の恩寵の下、明るく生きるということです。 

 

 

マルティン・ルター、

人生の時の時

江口再起 Saiki Eguchi

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